バブル体制の崩壊とその真の意味

『我々は年功序列を捨てた』とある
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我々は捨ててはいない。 団塊の世代に捨てられたのだ。 ポストバブルの会社体制における変化において、前衛的な進歩が無かったと言えば嘘になるが*1、基本的には必要に迫られて、あるいは無対策に耐えきれずに体制が瓦解しただけであり、その為の全く十分とは言えない対応策の集大成が現状なのである。 より具体的に書こう。
まず、年功序列というフィロソフィーは、終身雇用という前提が無ければ成立し得ない。 この終身雇用は、団塊の世代が考慮の末決別したものではない。 力届かず、いや大した抵抗も出来ずに敗れ失ったものである。 年功序列は消えてはいない。 しかし例外が認められるようになったのは、我々が勝ち得たからではない。 われわれの前任者が勝手に失ったのである。
今40や30といった年代の我々や我々の一代前の人間は、まだ独自性を持って社会に対して何かを成しえてはいない。 今の我々の目の前にあるのは、前任者が失敗し調整不可能となった前世代体制の残骸と中途半端に乱立した新体制の断片的な成果の山、そして自らの引退を前になりふり構わず社会福祉的保守派へと転身した節操のない当事者の大集団である。 この世代は、ほとんど何も成し得てはいない。 プロジェクトXのような断片的な成果を題材にしたテレビ番組に酔いしれ、自己研磨としての学問ではなく自己逃避として司馬遼しか読まず、いざ本質となると自らが枯渇させた年金の請求書を我々に押し付ける。 こういう輩が育ち、残していったもの、それが終身雇用であり年功序列である。 それが瓦解したことは、ただ良いことではない。 前体制が崩壊したからといって、それは新しい時代の夜明けでは無い。 少なくとも言えるのは、前体制が崩壊したというだけのことである。 まだ喜ぶべきなにものも、我々は成果として生み出していない。
技術者に関して言えば、技術が好きかどうか知らないが、社内で生き残る道は管理職への道だ。 別に技術に限ったことではなくどこでもそうだ。 リテイラーや金融、商社や技術職の人間はどうも『自分達は特別』という意識が強い。 もちろん前述に例外はあり個性はあるだろうが、そこまでかけ離れてもいないのである。 自らの特異性を誇示する前に、まずは一般を知るべきであろう。
技術者よ、マンガやスポーツ新聞を捨て、新聞を読め。 まずはそれからだ。 マンガやスポーツ新聞は読めるのだ;時間が無いとは言わせない。

*1:様々な規制緩和と融資に対する公的扶助等が挙げられる