環境保護運動の意図と成果

http://d.hatena.ne.jp/hashish/20031225#p1
環境議論になった。 ただ私の見解もあまり変わらない。

単純に「いいこと」だ!!私はこれを気に、アメリカも世界のうちの一国として、排出について本腰をいれて取り組んでほしい。

はししの言う事はもっともだ。 ただ、今回の私の論点はそれとは違う。 論点の1つは、先進国が行う環境保護対策は、公害元を発展国に移すだけの対策になりはしないか、という点。 そして2つは、自らも先進途上の際には環境保護を無視してきた先進国が、今発展途上にある国々に自分たちが出来なかったことを強制するというのは、難しくもあり倫理にも反するのではないか、という点である。
ブッシュ嫌い、共和党嫌い、共和党が媚びうる重化学産業嫌い、何でもいい。 いずれにせよ、ブッシュの環境保護規制緩和に対する懸念を表明するのはもっともだ。 私もそう思う。 ただ、環境保護を唱えるのであれば、現在の危機に警鐘を鳴らすだけでは足りないのではないか、ということだ。 おのずと現状打破の為の対策が必要であり、今回は効果的な対策を行う上で、裁判所の判定が有効であるとは必ずしも言えないのではないか。
はししの

なぜならアメリカは1990年の時点で、世界の排出量の約4割も占めているのだから、少しの前進でも世界は大助かりだからだ。

今はそうかも知れない。 しかし、先進国が発展国に対して環境保護化の為に譲歩もしくは強制するという今の体制は変わりない。 それを改善するには、発展国でも同様の運動を行い同等の成果を上げることだが、発展国ではその効果が期待できないのではないか? 日本も、高度成長時代には『所得倍増計画』のような絵に描いた餅を描いてはただただ勤労に励み、既に先進国で問題が現実化してきた環境破壊問題を軽視してきた。 日本にできなかったことが、今のマレーシアで出来るという保障は無いと思う。 いずれ今の発展国が先進国となり、彼らも環境保護に真剣に取り組むようになるとしよう。 そうすると、今度は次の発展国に対して、今先進国が行っているような譲歩や強制を行うであろう。 これは、資本主義が内包する労働力枯渇の問題と似ていて、いたちごっこになる。 このやり方には、環境保護として妥当な対策は見出せないのではないか?
環境保護とは、世界的な規模で成果が出て初めて意味のあるものだと思う。 今回の裁判所の判定が、世界的な規模においてどれほど効果があるのか、そこが私には少々疑問だ。 例えば、ブッシュ政権がイニシアチブを取れないと知った鉄鋼業者が、より規制の緩い途上国へ生産基盤を移すというのは充分考えられる彼らの対策だ。 それにより鉄鋼業者は多少経済的に楽になるが、その分その途上国では環境問題が深刻化する。 鉄鋼業者もアメリカ国内での製造規模を縮小する必要性からリストラを断行し、アメリカ経済に不安材料を残す。 人々は経済に対する懸念と既得権保持の意識から、共和党がより力を持つ。 そしてより保守的かつ環境度外視の政治的土壌を作ってしまう。 これはただの絵空事だろうか? 充分に有り得る話ではないだろうか。
別の次元では、環境保護とは高度に政治的な問題だ。 政治的・経済的相互作用を充分配慮した上で活動を行わないと、やぶへびに陥る危険性がある。 そう、環境問題にとっての統治者は経済界のみにとどまらない。 政治界も同様に重要だ。 環境保護運動にもより政治的な配慮も必要ではないだろうか。

たとえ0.06%(アメリカの600分の1)しか二酸化炭素を排出していなくても、国が水没する危機に面している国は多くある。

これらの危険性を実際問題として取り組んでいかないといけない国は、それは熱心であろう。 しかし、彼らの声が何故届かないのか? これは、我々の認識が低いのもあるだろうが、より大きな理由は上記のようなより政治的な要因に帰するのではないだろうか?